浦島たろこさんは虐待サバイバー

妊娠出産を機に自分が虐待されていたことに気付き、うつ病になってしまった二児の母です。過去のトラウマとうまく付き合っていくために、自分の素直な気持ちや日常を綴ります。

とても残念に思った出来事


また久しぶりのブログ更新となってしまいました。



先日、とある講演会で父への手紙を読ませていただきました。


その際に起きたある出来事で、一部誤解が生まれているようなので、事実をここに記しておきます。



私の朗読中に、最前列に座っていた方が眠っていたそうです。私は緊張していましたし、朗読に必死だった為全く気付いていませんでした。


主催者側のどなたからも、そういった話は聞きませんでしたし、本当に全く知らなかったのです。


翌日、講師の方が「勇気を振り絞って被虐体験を話している目の前で、寝ている人がいて彼女はどんなに悲しかっただろう(意訳)」とツイートしているのを見て、これは私のことなのかな?と思いました。


でも、確証がなかったのでスルーしました。(朗読者は3人いましたし)


夜になり、再びその方が同じ内容をツイートされました。

朗読する私と寝ている人の姿が写った画像付きです。(寝ている人の顔は消してありました)

 

その方が議員だったことから、議員叩きが盛り上がっていました。

私は何にも知らない状態から「被虐体験を語っている真ん前で居眠りされて傷付いた女性」として晒されたことに仰天しました。


講師の方はその画像を使って「〇〇議員はちゃんと聞いてくれていました(意訳)」と他の方を褒めるツイートもしていました。


この件について私が残念に思っているのは2点です。


1、許可なく私の画像が使われた

 

撮影はOKしてました。ですが、このような事実と異なる内容で、人を叩くために私の画像が使用されるとは思いもしませんでした。


「あなたを思ってやったんじゃない?」と思う方もいるでしょう。


私も虐待サバイバーです。このような第三者の言葉に何度も落ち込んできました。

ワガママなお願いですが、どうかこのような言葉を私に投げかけないでください。

同じ苦しみを知っているサバイバーであれば特にです。


私の為を思っての行動であれば、まず私の気持ちを確認するプロセスが抜けています。


朗読中に居眠りされて傷付いた朗読者が他にいたのであれば、晒し以外でそれを伝えるやり方もあったはずです。



2、主催者側が人を攻撃した


講演会の準備は本当に大変だったと思います。(私も一時期携わりました)

会場で寝ている人を見れば、誰しも嫌な気持ちになるでしょう。相手が議員であれば尚更です。


それでも相手が誰であれ、主催者側が参加者の視聴態度について「この人はちゃんと聞いていた、この人は寝ていた」と晒し上げることはすべきでないと私は思います。


顔は消されていても、どなたのことを言っているか参加者にはだいたい検討がつくでしょうし。


「食わせてやってるんだぞ!」と親が子供を虐待するのと、「有権者なんだぞ!」と議員を晒し上げることは違うようで似ています。


多くの人はちゃんと聞いてくれていたのですから(3時間の講演中、席を立つ人はほとんどいなかった)、その人達を置いてきぼりにするようなことはしないで欲しかったです。


自分の画像を使って人が叩かれるのを見るのは、私にとって面前DVと同じでした。


これを書いている最中、講師の方から「私の映っている部分を削除した」というお詫びのDMを頂きました。

ですので、もうこの件について蒸し返すつもりはありません。


ただ、このようなことが虐待防止の講演会で今後起こってほしくないので、記録として残させて頂きます。


講師の方の本からはとても勇気をもらいました。

虐待サバイバーという自覚を持ってから、初めて出会った本なので私にとっては親みたいな存在の本です。


「毒になる親は捨てていい」とその本は教えてくれました。だから私は自分にとって毒になる人との関係は断ちたいと思います。


講師の方に励まされた方、勇気付けられた方を否定するつもりはありません。

誰を好きになるかは自由だし、虐待サバイバーの回復の道は人それぞれ違うはずですから。


疲れてしまったので、気持ちが落ち着くまでしばらくネットから離れます。


DMなど頂いておりますが、誰かとやりとりできる気分ではないので、返信できていないことをお許しください。

許されたいのかもしれない。朗読会で思ったこと


前回の更新から間が空いてしまいました。


3回目の朗読会の前に、前回の記事の続きをまとめたかったのですが、ああでもないこうでもないと文章を書き直しているうちに時間が過ぎてしまいました。


ですが3回目の朗読会を終えたことで、自分の中である程度考えがまとまってきたので、下書きしたものを破棄して書き直してみようかと思います。(朗読会8月の模様はこちらhttps://child-rights-nagoya.blogspot.com/2019/08/blog-post_25.html?m=1)


被虐体験を話すことに対して「勇気がある」「強い」と褒めていただくことがたまにあります。


これがなんだか、全然ピンとこないのです。

(嬉しくないとか嫌な気持ちになるとかでは全然ないので、誤解しないでくださいね!)


私は弱い人間です。

毒親という嵐の中でキリキリ舞う木の葉みたいなものだと思っているので「えっ!どこが?なんで?」とびっくりしてしまうのです。


じゃあ強くもなく勇気もない自分がなぜ、被虐体験を話しているのか。


それはもしかしたら、一種の自傷行為なのかなとも思えてくるのです。


被虐体験をツイートする時も、朗読会で手紙を読む時もなんとも言えない恥ずかしさに襲われます。

親の醜い姿を晒すことは、自分の醜い姿を晒すことでもあるからです。

愛されなかったことを人にばらすのは、自分に価値がないことをばらしているようで、情けなくなったりもします。


また、虐待されて耐えてきた経験というのは、普通の家庭で育った人にとっては理解し難く「なんで縁を切らないの?」とか「なんで言い返さないの?」といった疑問を感じたり、被害者の態度に煮え切らなさを感じたりすることもあるかと思います。


そういう反応が返ってくるのが怖い、傷付きたくないという気持ちがある一方、そういう反応を待っている自分もどこかにいるんです。


親に大切にされなかった自分。

大切にされないことを受け入れてしまった自分。

そんな自分を曝け出して、呆れられたら楽になれるんじゃないかって思いがあるんです。

うーん、なんだか悪趣味ですね。


あと、もっと言えばやっぱり期待もあるんだと思います。

何に期待しているかというと、許されることです。

親の暴力に抗えなかったこと、おかしいと思えなかったことは、いまだに悔しく、過去を振り返れば振り返るほど、親以上に自分を許せなくなります。だから誰かに代わりに許してほしいという気持ちがあるのです。


過去に2人だけ、被虐体験を話したことがあります。

結婚式を挙げた教会の神父。

あとは子育て支援センターの保育士さん。


2人とも私の親くらいの世代でした。

なんでこの人達に話す気になったのかなって考えると、親に得られなかったものをこの人達に求めたからなのかもしれません。


過去の記事で今の主治医との関係は良好と書きましたが、それもやっぱり主治医が親くらいの歳で、精神的親の役割を果たしてくれていることが大きい気がします。


なんだか、いつになくドロドロと自分の心の弱い部分を書いてしまって非常に恥ずかしいです。

被虐体験を語るのは強さからではなく、むしろ弱さから来ているのかもしれないという話でした。


とはいえ、これはあくまで私の場合です。「日本一醜い親への手紙」を読んでいると、清々しさすら感じる手紙もあるので、やっぱりその辺りは「人それぞれ」なんでしょうね。






パーフェクト家族という幻想



720日に「日本一醜い親への手紙」朗読会に参加しました。


https://child-rights-nagoya.blogspot.com/2019/07/blog-post_49.html?m=1

朗読会の模様が読めるブログです。



その際、参加者全員の自己紹介の時間があり、自身の家族関係について、1人ずつ話してもらいました。


虐待されずに育った方の家族の話を聞いた時、私なりに気付いたことがありまして、うまくまとめられるかわかりませんが、ちょっと書いてみたいと思います。



それは、虐待されていない人が自分の家族に満足し、常に幸せを感じているかといえば必ずしもそうではないんだという発見でした。



自己紹介の中で何人かの方が、親をわずらわしく感じたり反発していた時期があったと話してくれました。


100点満点の家族なんてものはそうそうなく、80点、もしかしたら70点。


家族といえどもそれぞれが意思を持った人間ですから、時に衝突し合って、まぁしょうがないかと妥協していくのが家族の本来あるべき姿なのかなと感じました。


家族は許し合うもの、なんて言葉もありますが、不平不満も含めて「家族」なのかもしれません。


この「家族は許し合うもの」というのをはき違えて、子供を否定し、意のままに操ろうとするのが虐待なんだと思います。


私は勝手に、というか無意識のうちに「普通の家庭はめちゃくちゃ愛に溢れていて、超幸せなんだ」と思い込んでしまっていた節がありました。

だから世の中に対してひねた態度を取ってしまったり、被虐体験のない人に「あなたには素敵な家族がいるんでしょ」と嫉妬を感じてしまうんだと思います。



そしてもしかしたら、普通の家庭で育った人の中にも「よその家庭はめちゃくちゃ愛に溢れていて、超幸せなんだ」と思い込んでしまっている人がいるのかもしれません。



というのも、世の中には「美しい家族像」なるものが溢れかえっています。

芸人〇〇さんを支えた母の言葉、感動のエピソードなどという家族がらみの美談はネットを漁ればこれでもかとばかりに出てきますし、朝の連続テレビ小説などに登場する家族は大抵、主人公にとても理解があります。(全員という訳ではないですが、家族の誰かしらは主人公の味方です)


メディアによって作られた「美しい家族像」を虐待サバイバーもそうでない人も「実在する家族」として信じ込んでしまっているのかもしれません。



被虐体験を普通の家庭で育った人に打ち明けた時、「うちも似たようなものだよ」と返されて落胆する。

虐待サバイバーには、こんな経験が1度くらいあるのではないでしょうか。


なぜこんな答えが返ってくるのだろう?

なぜ虐待される辛さを分かってもらえないのだろう?


ずっと疑問だったのですが、被虐体験のない人にも多かれ少なかれ自分の家族に不満があるからなのかもしれません。

だからこそ、ドラマや小説には美しい家族の愛が描かれて、人々は感動し、憧れを持つとも言えるでしょう。



そんなことを思った朗読会でした。



朗読会で母の手紙を読んだことがきっかけだったのか、自殺念慮が戻ってきてしまい、しばらく虐待について考えるのをやめてだらだら過ごしました。


そうしている間にも朗読会にまつわる個人的な発見があったので、また記事にしたいと思います。


正論じゃ人は救えない


半年くらい前までは、もう本当に死んじゃおうかなと思っていましたが、その頃に比べると今は大分マシになってきています。


その理由の一つが、運良く相性のいい主治医と出会えたことだと考えています。



昨年秋にかかった心療内科との相性は最悪でした。


昨年の夏から、私はこんな症状に苦しめられていました。



・一日中、虐待の記憶が頭を駆け巡っている

・息子と過去の自分を混同してしまう

・母と自分を混同し、母にされた暴力を自分が息子にしたものだと思い込んでしまう

・食事や休憩がとれない



みんなそうなの?私だけなの?

子育て相談窓口や虐待に関する相談ダイヤルに何度か電話をしましたが、「お母さん頑張ってますよ!」とあしらわれたり、電話口の向こうで明らかに困っている様子が伺えて、電話を切ってしまいました。


そこで、最後の頼みの綱として心療内科に行きました。


問診票には過去の虐待のことや、育児に困難を感じていることを書きました。


医師は開口一番言いました。



「で、ここに来るに至るまで何か努力ってされてたんですか?」



ショックでした。努力って何?努力してない人は病院に来ちゃいけないの?って思いました。



「来年春にお子さんが幼稚園に行くまでの我慢じゃないですか」

「お子さんかわいいんですよね?だったら叩きたい衝動も抑えられるでしょう」

「過去は変えられないだから、クヨクヨ考えてもしょうがないです」



私ってそんなに癇に触るのかな?って思うほど、診察のたびに厳しいことを言われ、「私は医者すら辟易するほど駄目な人間なんだ」とますます落ち込んでいきました。


通院は2ヶ月ほどでやめてしまいました。


そして約半年前、息子を保育園に送った帰りにフラフラと立ち寄ったのが今の心療内科です。



今の主治医を信用できるようになったのは、ある出来事からでした。



息子は夜驚症です。

朝まで寝るということはまずなく、泣き叫び手が付けられないことも多いです。

一度、カッとなって息子を叩いてしまったことがあります。


夫が飛び起きて怒り、私も「とうとう自分は親と同じ道に堕ちたのだ」と絶望し、パニックになりました。


主治医には叱られるのを覚悟でそれを話しました。

すると主治医の言葉はこうでした。



「君は何にも悪くない。いつも君ばっかり責められて悔しいなぁ!」



拍子抜けしてしまいました。

他にも主治医は叩いたことを肯定するようなことを言い、私は「この人大丈夫?」と呆れましたが、びっくりするほど心が落ち着いたのです。


その結果、短時間の勤務ではありますが、パートをできるほどに回復しました。

不思議なことに、叩いたことを肯定されたことで「もう絶対叩かない」と本気で思ったのです。



最近になって、精神科に勤めている知人に前の主治医の愚痴をちらっと話しました。


知人は言いました。



「過去は変えられないっていうのは事実だよね。何がだめ?」



過去は変えられないから今を生きるべき。

これは正論です。

前の主治医も知人も間違ったことは言ってない。


でも正しいことを言って、人を救えるかといえば必ずしもそうではないと思います。


今の主治医は「子供を叩くなんて、君はなんてことをしたんだ!」と言うより「叩くこともあるよね。君は悪くない!」と言ったほうが、私の回復に繋がると判断したのだと思うのです。


正論で詰めることだけが正解とは言えない。


これって心の傷をケアする上で、重要なことなのかなと思った出来事でした。


増長する虐待サバイバー


ツイッターやブログで自分の被虐体験を語るようになり、2ヶ月ほどが経ちました。



最近になってとある人物のことをよく思い出します。



皆さんはキュン妻さんという漫画家をご存知でしょうか?


昨年までブログ等にエッセイ漫画を発表していた方です。(現在は更新が途絶えています。)


彼女は虐待サバイバー、いじめサバイバーである自身の実体験を漫画に描き、大きな反響を得ています。



https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=manga&illust_id=52263000


https://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=manga&illust_id=55991569


(興味のある方はこちらのリンクから読めます。虐待やいじめの描写があるので閲覧にはご注意を)



キュン妻さんは自身の発言でたびたび炎上しており、そのあたりは主旨とずれるので割愛しますが、その内のひとつに「虐待ご褒美発言」という炎上騒ぎがありました。



人気絶頂時、キュン妻さんはツイキャス配信をしており、そこでファンから悩み相談を受けました。内容は「親から経済的虐待を受けている」というものです。

それに対し、キュン妻さんの回答はこうでした。



「私にとって虐待はご褒美。相談にならない!」



(補足すると、彼女は日頃から自分はドMだと公言しており、「いじめられて喜びを感じる私にとって虐待はご褒美でしかないから、相談する相手が間違っているよ」という主旨の発言と思われます)



この回答は波紋を呼び、失望してファンを辞める人もいたようです。



私はこの発言について「キュン妻さんはなぜそんなことを言ったのだろう?」とよく考えます。



キュン妻さんはエッセイ漫画の内容自体、全部嘘なんじゃないかと疑惑があった人です。


自身が虐待サバイバーだという設定を忘れて、うかつに虐待を茶化すような発言をしただけなのかもしれません。


彼女が本当に虐待サバイバーかどうかを知る術はありませんが、私個人としては「もしかしたら本当に虐待サバイバーだったのかな」と思っています。



急に多くの人から「あなたはすごい」「あなたは立派」と持ち上げられれば、誰しも舞い上がってしまうものです。


親から自分を否定され、人間関係で苦労し、孤独を抱えてきた虐待サバイバーなら、なおさらそうだと思います。


キュン妻さんは「自分こそが悲劇のヒロインだ」とやっと多くの人が認めてくれたところに、「私も同じ境遇で苦しんでいます」という人が現れたのが気に入らなかった。

相談者の悩みを聞き、同情する視聴者の気持ちを自分に向ける為に、奇をてらう発言をした。


あくまで私の推測でしかありませんが、そういう歪んだ自己顕示欲は私の中にもあります。なので、彼女もそうだったのではと想像しています。

 


ネット上で被虐体験を語り、反応をもらうことは救われる反面、歪んだ自己顕示欲も刺激されます。


私自身、気を付けなければという思いから、いつまでもキュン妻さんのことを心に留めている次第です。




また、余談ですが、リンク先の漫画の内容が事実であれば、キュン妻さんは父親の暴力について「私を愛していたから手加減して殴ってくれた」と解釈し、怒りや悲しみをぶつけることなく、父を許しています。

これって美談のように見えますが、いい娘を演じ続けているだけとも取れます。


なのでキュン妻さんが本当に、漫画の通りの人物であるならば、彼女が父親との関係を修復できたとは言い難いのかもしれません。


朗読会で気付いた「壁」の話


6/22名古屋市の東生涯学習センターで開催された「日本一醜い親への手紙」の朗読会に参加してきました。



参加者さん達は、虐待について勉強されたり、ご自身の中で考えを深められている方ばかりで、本当にすごい!とひたすら感心しっぱなしでした。



主催者の古家月日さんに快諾いただき、私もオリジナルの父に宛てた手紙を読ませていただきました。

 

人様の前で父の異常な振る舞いを話すことが恥ずかしく、ちゃんと朗読できるかギリギリまで不安だったのですが、無事最後まで読むことができました。



手紙という形式はすごいアイデアだと思います。



朗読していると、父と自分だけの世界に入っていく感じで、周りに人がいることが気にならなくなってきました。



手紙の中に、父が唯一私を守ってくれた思い出を書いたのですが、その部分を読みながら、その時の父に戻ってきてほしいと思いました。



月日さんやナギヒロさんの朗読にも胸を打たれました。



そして、虐待について話し合っている中で、特に印象に残ったのがAPU家族研究会の磯村さんのお話です。



虐待被害者と接した経験のある磯村さんは、被害者からの「あなたは虐待されたことがないからわからないだろうけど」といった言葉に、壁を感じたそうです。



ドキッとしました。



私も「虐待されてない人に分かるもんか」という感情を捨てきれないからです。



これは一般的な家庭で育った人に対する、逆差別なのかもしれません。



虐待サバイバーの多くは、虐待の経験を人に話し「過去のことでしょ」「生きていられただけマシ」「子を愛さない親はいない」などといった言葉に傷ついた経験があると思います。



その結果、虐待サバイバーは世間に壁を作ってしまうのでしょう。



双方の間にあるこの壁を虐待サバイバーの側からも壊していけたらいいなと思いました。




余談ですが、私は作家の野坂昭如さんの大ファンです。



野坂さんは「男と女の間には暗くて深い川がある」と歌っていました。


サバイバーと世間の間にもきっと暗くて深い川があるんだと思います。


そんな川に船を出したい人がいるなら、私は応援したいです。




親に「ありがとう」の手紙を書いてみたかった



友達はあまり多い方ではない私ですが、過去に何度か友人の結婚式に参列したことがあります。


大切な友達の晴れ姿を見れることはとても嬉しく、涙が出るのですが、なぜかいつも帰り際に一抹の寂しさを感じていました。



あの寂しさの正体はなんだったのだろう。



もしかして私は友人に嫉妬しているのかな?



嫉妬だったら、卑しい人間みたいで嫌だな。



自分の醜い部分を目の当たりにするのが嫌で、あまり考えないようにしていたのですが、最近になって、もしかして披露宴で読まれる「親への手紙」が嫌だったのかなと、思うようになりました。



新婦が両親に親への感謝の手紙を読む場面は、結婚披露宴のクライマックスともいえる感動的なシーンです。




私は「ありがとう」を言えるような親を持った友人達に嫉妬していたんだと思います。




6/22の土曜日、名古屋で「日本一醜い親への手紙」の朗読会が開催されます。



虐待サバイバーであり、親への手紙の公認朗読者である古家月日さんが企画をしてくださいました。


私も参加させていただき、自分が書いた「親への手紙」を朗読させていただくつもりです。



古家さんもそうだと思いますが、私はこの「親への手紙」に自分の全てを込めました。


子供の頃悲しかったこと、大人になってから苦しんだこと、親に言いたくても言えなかったこと、全部全部書きました。


私も結婚式で親に感謝の手紙を読んでみたかった。



それは叶いませんでしたが、自分にしか書けない手紙を書いたつもりです。



朗読会は現時点で残り2名となっているようです。


虐待サバイバーの方も、そうでない方も興味があればぜひ足を運んでみてください。



場所等の詳細、参加のお問い合わせは下記リンクからお願いします。



古家月日さんのTwitter

https://mobile.twitter.com/mindful_meisou



古家月日さんのブログ

http://tsu-ki-hi.jugem.jp