許されたいのかもしれない。朗読会で思ったこと
前回の更新から間が空いてしまいました。
3回目の朗読会の前に、前回の記事の続きをまとめたかったのですが、ああでもないこうでもないと文章を書き直しているうちに時間が過ぎてしまいました。
ですが3回目の朗読会を終えたことで、自分の中である程度考えがまとまってきたので、下書きしたものを破棄して書き直してみようかと思います。(朗読会8月の模様はこちらhttps://child-rights-nagoya.blogspot.com/2019/08/blog-post_25.html?m=1)
被虐体験を話すことに対して「勇気がある」「強い」と褒めていただくことがたまにあります。
これがなんだか、全然ピンとこないのです。
(嬉しくないとか嫌な気持ちになるとかでは全然ないので、誤解しないでくださいね!)
私は弱い人間です。
毒親という嵐の中でキリキリ舞う木の葉みたいなものだと思っているので「えっ!どこが?なんで?」とびっくりしてしまうのです。
じゃあ強くもなく勇気もない自分がなぜ、被虐体験を話しているのか。
それはもしかしたら、一種の自傷行為なのかなとも思えてくるのです。
被虐体験をツイートする時も、朗読会で手紙を読む時もなんとも言えない恥ずかしさに襲われます。
親の醜い姿を晒すことは、自分の醜い姿を晒すことでもあるからです。
愛されなかったことを人にばらすのは、自分に価値がないことをばらしているようで、情けなくなったりもします。
また、虐待されて耐えてきた経験というのは、普通の家庭で育った人にとっては理解し難く「なんで縁を切らないの?」とか「なんで言い返さないの?」といった疑問を感じたり、被害者の態度に煮え切らなさを感じたりすることもあるかと思います。
そういう反応が返ってくるのが怖い、傷付きたくないという気持ちがある一方、そういう反応を待っている自分もどこかにいるんです。
親に大切にされなかった自分。
大切にされないことを受け入れてしまった自分。
そんな自分を曝け出して、呆れられたら楽になれるんじゃないかって思いがあるんです。
うーん、なんだか悪趣味ですね。
あと、もっと言えばやっぱり期待もあるんだと思います。
何に期待しているかというと、許されることです。
親の暴力に抗えなかったこと、おかしいと思えなかったことは、いまだに悔しく、過去を振り返れば振り返るほど、親以上に自分を許せなくなります。だから誰かに代わりに許してほしいという気持ちがあるのです。
過去に2人だけ、被虐体験を話したことがあります。
結婚式を挙げた教会の神父。
あとは子育て支援センターの保育士さん。
2人とも私の親くらいの世代でした。
なんでこの人達に話す気になったのかなって考えると、親に得られなかったものをこの人達に求めたからなのかもしれません。
過去の記事で今の主治医との関係は良好と書きましたが、それもやっぱり主治医が親くらいの歳で、精神的親の役割を果たしてくれていることが大きい気がします。
なんだか、いつになくドロドロと自分の心の弱い部分を書いてしまって非常に恥ずかしいです。
被虐体験を語るのは強さからではなく、むしろ弱さから来ているのかもしれないという話でした。
とはいえ、これはあくまで私の場合です。「日本一醜い親への手紙」を読んでいると、清々しさすら感じる手紙もあるので、やっぱりその辺りは「人それぞれ」なんでしょうね。